Midnight Express③

「第3話 ナイロビ→モンバサへ ~乗り物の旅~」
ケニアの目的の一つとして、ある乗り物に乗ることがあった(訳あって、何の乗り物かは言えないので、各自想像してください)。

ケニア3日目、朝からそれ程好きでもないのだが、ゾウの孤児院に行き、ケニアの動物保護の現状を学んだ後、エチオピアで知り合ったある日本人の方がケニアに忘れたというフィルムを取りに行くことになっていた。

なぜ、このような頼まれごとを引き受けたかというと、これも「深夜特急」の影響で、当時の沢木耕太郎は友人に海外の知り合いに会ってきてほしいと言われ、それをミッションとし、苦労しながら人探しをするというのが小説の中にあった。

何事にも影響される私のため、エチオピアでこの頼まれごとを聞いた時、「これは一人旅のミッションだ」と思い、喜んで引き受けることに。
おそらくケニアで、その人が忘れたと言われるフィルムを取りに行くのは、右も左もわからない私にとって、かなり苦労するだろうと思っていた。

が、しかし右も左も知り尽くしたタクシーの運転手が簡単に連れていってくれたため、何も苦労しないで任務を達成してしまった。一瞬だった。


そして、ついに目的の一つの乗り物に乗ることに・・・。
が、しかし予定時刻の午後××時になっても、その乗り物はやってこない。

「まぁ、ケニアタイムだろう」
とホームで待つこと、4時間半、その乗り物はやってきた。

「ようやく出発だ」
とテンションがあがって待つこと、2時間、予定時刻から5時間半遅れでその乗り物は出発した。

同じ寝どころになったポーランド人のポールに話しかけた。

ゲンタ「ベッド上か下かどっちが良い?」

ポール「下に決まってるだろ!!」

(このデブ!どついたろか)と思ったが、これが欧米人の自己主張なのだと思い、見習おうと思い、どつきはしなかった。

そして、この乗り物は度肝を抜くぐらい遅かった。
窓から景色を見ていた私だが、途中走って追いかけてくる子どもと同じスピードだったことを知っているのはおそらく私だけではないだろう・・・。

そして、乗り物に乗ること16時間半(この時点で完全予定が狂っていた)、目的地のモンバサに着いたと思ったら、そこはモンバサから20kmほど離れた田舎町だった。

マネージャー「お客様、大変申し訳ございません。この乗り物は、本日はここまでです。理由は整備不良です。そのため、この乗り物は今からナイロビに折り返します。モンバサまではバスを手配しますので、外に出てお待ちください」

「後20kmぐらい絶対何とかなるだろう!!」と思ったのは、おそらくそこにいた全員だろう。

そしてマネージャーはバスを手配すると言ったが、何もない田舎町で降ろされた欧米人300人余りのバスを手配することは不可能であり、タチの悪い欧米人に文句を言われているマネージャーは少し可哀そうだった。

私も車体から降り、欧米人がマネージャーにどのような文句を言っているのをリスニングしようと近づいていった時(常に学ぶ意識を忘れない石部隊員)、あるケニア隊員に会った。

彼の名前はモリゾー。私の隊次の一つ遅れの環境教育隊員だった。
彼も一人旅をしているらしく、今からモンバサに行くことになっていた。
(後に彼は私の一人旅のキーマンとなる)

ケニアの現状を知っている彼と協力し、ピキピキと呼ばれる乗り物に乗ってミニバスが拾える場所まで行った。
そして、彼はそのままモンバサに行き、私は少しナイロビ方面に折り返したところにあるボイとういう町に向かった。

そう、ケニア一人旅、最初のハプニングにより、丸一日つぶれてしまった私は急遽予定を変更しボイに向かうことになったのだ。

このハプニングに助けの手を差しのばしてくれたのがケニア隊員の○山隊員だった。

次回「初サファリfeat...○山隊員」

ミッション達成
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乗り物のベッドにて・・・。
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これぞ、バオバブの木
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子どもの遊びはケニアでも同じ。ただ、少しクオリティーが上!!
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# by genta_ishibe87 | 2011-09-03 05:25  

Midnight Express②

ケニア2日目、朝から前日に出会った、研究者のミツルさんと妹のアキコさんに、スラム街に連れて行ってもらうことになり行ってきた。

感想から言うと、衝撃だった・・・。

スラム街の町並みや家などは、エチオピアにも見られる傾向の雰囲気だったが、違って点として、ゴミ山があった。フィリピンのゴミ山などは映像で見たことがあるが、ここスラム街にもゴミが山になるぐらい落ちていた。
アキコさんが言うには、ここに落ちているゴミは、人々が使えるものをもっていって、さらに残った本当に使えないゴミらしい。

そして、このゴミ山の周辺はすごい臭いだった。

ここで人が生活ができるのかと思うくらいの臭いだったが、実際にここで人は生活しているのだ。これが、ケニアの現実だった。

しかし、街を歩いていて、正直危ないという印象は全くなかった。

スラム街=危険というイメージがあったが、そのイメージは間違いだったのかなと思い始めていたが、いろいろな話を聞いていれば、やはりこういう地域では金がらみの殺人がたびたびおこるらしい・・・。

だが、ここの人たちは本当に一生懸命働いていた。たった一日しか見ていないから、あまり確かな情報ではないが、日曜日というのに、みんな一生懸命働いている印象を持った。

ここがスラム街なのかと思ってスラム街を出た。

しかし、本当の衝撃はこの後だった。

スラム街から出て5分歩いたところにショッピングモールがあった。
入ってみた。日本並みだった。おそらくアフリカでトップクラスだろう。そして考えた。

一方はゴミ山の側で必死に生活をし、一方はおしゃれな格好をし、高い買い物をし、車に乗って移動するという生活をしている。

同じケニア人なのにこの差は一体なんなんだ・・・。

スラム街を見た後にこのショッピングモールを見て、全てのことに対してよくわからなくなった。

ここナイロビでも外国の団体がスラム街の人たちを住ませるためのマンションを作ったりして、少しでもスラム街の人を救おうと行動している。

しかし、このマンションが原因でさらなる揉め事が起こっているのも事実である。
いかに、「国際協力」が難しいものかを物語っている。

先進国の人が「かわいそう」と思っていても、途上国の人は全くもって「辛い」と思っていないのかもしれない。それ以上に何の不安もないのかもしれない。
彼らの気持ちは彼らにしかわからない。
外見だけを見て全てを判断するのは、かなり難しいにもかかわらず、外国のボランティア団体にいったい何がわからというのだろうか?
「彼らのために」を思って行動しているのだが、本当の「彼らのため」とはいったい何なんだろうか?

要するに、「自分の目を持つ」ことが最も大切な要素の一つで、「国際協力」については学び続けなければいけない

最後に、ケニアのスラム街を歩いたが「お金をくれ」と言われた回数・・・0回


ゴミのが大量に残ったメニュー
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スラム街から出て5分後にはこの光景。ますますわからない・・・。
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このパン屋のクオリティーの高さ!!感動です!!
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このケーキ屋のクオリティーの高さ!!感動です!!
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子どもはどこに行ってもかわいい!!これは間違いない!!
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ケニアプレミアリーグを観戦。
まさかの人工芝。そして、アフリカンパワーを思い起こさせるプレー。
なぜか、コーチと硬い握手をし、写真撮影。
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# by genta_ishibe87 | 2011-09-01 05:55  

Midnight Express①

大学4年の時、ある本を薦められた。

「深夜特急」沢木耕太郎 著 単行本全6巻

大学時代、本がまぁまぁ好きだった私は読もうと思いながらその当時は読まなかった。
おそらく、この世にそのような本はたくさんあるだろう。

しかし、最近その本を読み、一つの決意をした。

「私も沢木耕太郎のようにノンフィクション小説のようにおもしろおかしく、そしてリアルにブログを書いていこう」

よって、ケータイ小説ならぬブログ小説風に今回の「ケニア旅行」の様子を書いていこうと思う。小説風なので長くなるかもしれないので、ゆっくり時間がある時に読むか、電車の中で読むか、寝る前にベッドで読むか、もしくは読まないでアクセスするかだけしてください。

ではどうぞ!遅くなりましたがケニアに行ってきました。


第一話「一人で行かなきゃ意味ないじゃん」
私の同期隊員で「リーダー」と呼ばれる、理数科教師の先生がいる。
このリーダーは現在40歳なのだが、絶対に24歳と言い張る訳の分からないポリシーを持っている。しかし、JICAの職員に「世界で一番活動の上手くいっている協力隊員」という太鼓判を押されるくらい、すさまじい活動を展開しているのも事実。
私の任地の隣に住んでいるため、よくご飯を食べたり家にお邪魔にさしてもらったりしている。

そんなリーダーと2人で飯を食っているある日、リーダーが私に言った。

「いやぁ~協力隊って全部JICAに守られているじゃないっすか~保険やら何やらで僕らは何も心配することないじゃないっすかぁ~だから任国外旅行だけは、全部自分の力だけでやってみようと思いまして、手続きやら何まで自分でして一人旅にチャレンジしようと思います。」

この言葉は衝撃だった。

「自分のことを24歳といい続ける40歳のおっさんが、自分の成長のためチャレンジしようとしているのに、本当の24歳の私がチャレンジしなくてどうする!!」

という思いになり決意しました。

「ケニア旅行~一人で行かなきゃ意味ないじゃん~2011」

とは言ったものの、何が一人旅なのか全く知らなかった私は、準備段階からかなりあたふたしていた。あたふたしていたというよりも、特に何も準備しなかった。

そこで一人旅といって何をしていいかわからない私を助けてくれたのが、ケニアの同期隊員の皆様。私がチンタラと計画を決めないため、プランニングやアドバイスを細かくメールで送ってくれ、みんなに迷惑をかけながらも私の一人旅プランは完成した。
(この時点で一人旅ではないという方もいるかもしれないが、そこは目をつぶろう)

目的と計画は以下の通り
○目的
1.サファリに行ってケニアを感じる
2.海に行ってケニアを感じる
3.乗り物に乗ってケニアを感じる
4.ケニアサッカーを観て、プレーする
5.ケニア人と友達になる
6.死なない、絶対に

○計画表
・13日(土):12:10ナイロビ空港着、その後JACIIに移動(タクシー1300シリ)、夕食は日本人クラブでトンカツ定職を食う。
・14日(日):ケニアプレミアリーグを見に行く。
・15日(月):ゾウ孤児院、乗り物チケット購入、19:00発
・16日(火):10:00モンバサ着、海水浴、ビーチサッカー、夕日を撮影
・17日(水):ワタムに移動、海水浴、スノーケリング、海鮮丼
・18日(木):ツァボサファリに移動、ゲームドライブ
・19日(金):ゲームドライブ②、夜バス移動(ナイロビへ)
・20日(土):自主練習
・21日(日):サッカー試合、その後ケニア隊員と飯(日本人と会うことが唯一許された日)
・22日(月):ショッピング、空港へ、アジスアベバ20:00着

個人的に一人旅のイメージとして、日本人とは会わないというのが私の中にはあったため、できる限り日本人とは会わないプランニングが完成された。
そして、同期隊員のDIEGOとリーダーも同じ時期にケニアに行くということなのだが、奇跡的に出会ってもお互いに無視をしようということを約束し、私の旅はスタートした。


13日(土)アジスアベバ→ナイロビ
結果から言うと、ナイロビのこの日泊まる宿付近まで同期隊員のDIEGOと行った。
(この時点で一人旅ではないような気がするが、そこは多めにみよう)

DIEGOと別れた私は、まず今夜泊まる宿舎であるJACIIを探した。
JACIIの場所がわからず、2時間近く探した末、見つかったこの日の宿舎のオーナーはがっつり日本人だった。
そう、ここはケニア隊員が語学訓練の際に使用するスワヒリ語の学校だったのだ。
しかし、オーナーが日本人ということは多めに見るとして、その後、本日の夕食の場である「日本人クラブ」という日本食屋に行った。

そこには、日本人のグループが2つあった。

ここで絡んでは一人旅にはならないと思い、一人で飯を食べることに・・・。
日本食に飢えに飢えている私は久しぶりの本格的日本食に多少興奮気味だった。
しかし、一人旅のデメリットとして、いろいろな種類の料理が食べれないということ。
しかし!!そんなこと関係あるかといわんばかりに、トンカツ定職と寿司の盛り合わせを頼んでしまった。初日から贅沢してしまった。

この2品を食べた瞬間、旨すぎて旨すぎて旨すぎたため、一緒にケニアまで来ていたDIEGOについ電話してしまった。
(電話で日本人に絡むのは一人旅の中ではOKとする)

どうしてもこの感動を誰かに言いたかったのだ・・・。

そして私の脳裏に浮かんだのは、

「ラーメンが食べたい・・・。」

メニューを見ていてラーメンがあるこに気づき、さらにラーメンを頼みたくなったのだ。
頼むか頼まないか悩んでいたとき、二人の女性が入ってきた。

もちろん、日本人だった。

私の横のテーブルに座ったため、明日からのナイロビの旅を充実させるため、

「おすすめスポットはどこですか?」

とつい聞いてしまった。

「スラム街」という言葉、会話の中で出てきた。

ケニアはとにかく危険な国ということを聞いていたため、スラム街など一人で行くつもりはさらさらなかったが、「連れて行ってあげるよ」という言葉に心ひかれ次の日の朝からスラム街に行くことになった・・・。

(日本人と全く絡まないつもりが初日からがっつり絡みまくっている私の一人旅はスタートした・・・)

次回、「石部隊員スラム街とナイロビの街に度肝を抜く」の巻

つづく

トンカツ定食&寿司
この日、ラーメンは先のことを考え断念。しかしこの決断が間違いでなかったことは、数日後明らかになる・・・。
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初日深夜0時、JACIIで寝ていた私を起こしに来たケニア隊員のお二人。
初日だけにして、10人以上の日本人と会ってしまったが大目にみようと思う。
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# by genta_ishibe87 | 2011-08-24 21:10  

Radio

前回、前々回のブログに引き続き、雙田隊員の活動について書きたいと思う。

前回のレイプされた女性とその子どもたちのための施設を見学した後、エチオピアのマザーテレサの施設に行ってきた。
この施設は、子どもから大人まで障害を持っている人が政府のサポートを得ながら生活している施設である。

雙田隊員はこの施設にて、肢体不自由の子どもたちに勉強(アムハラ語)とリハビリのトレーニングを行っている。
雙田隊員の活動を見ていて、「ボランティア」の心髄を見たような気がした。

その施設でコミュニケーションをとっていた私にある男の子が声をかけてきた。

男の子「ゲンタ、イングリッシュプレミアリーグで好きなチームはどこだ?」

イングランド・プレミアリーグが大好きなエチオピア人の質問。

ゲンタ「リヴァプールだよ」

男の子「俺はマンチェスターだ」

ゲンタ「そうか、サッカーはテレビで観てるの?」

男の子「いや、テレビは僕たちは観れないんだ(マザーテレサの施設にはテレビがないと思われる)」

ゲンタ「それじゃ、どうしてそんなに詳しいの?」

男の子「ラジオで聞いてる。」

なるほどと思ったと同時にいろいろな感情が頭をめぐった。

産まれてすぐにこの施設に入ったと思われる彼らは、テレビでサッカーを観たことがあるのだろうか?
音声だけで彼らの頭の中にはどのようなサッカーがイメージされているのだろうか?
そして、ボールを脚で蹴ることができない彼らの一番好きなスポーツがサッカーということも、サッカーの偉大さを改めて感じるし、彼らのサッカーを愛し、楽しむまっすぐな心も私を深く感動させた。

そして、彼らは私に言った。

男の子「ゲンタ、ラジオをみんなに買ってくれ。ここにいるみんなにサッカーを聞かしてあげたい。」

彼らにとってのサッカーは「する」ものでもなく、「観る」ものでもなく、「聞く」ものだった。

自然と涙が出そうになった。

こうして「刺激」を受けすぎて、考えすぎて、頭がごちゃごちゃになった私の一日は終わった。


この経験を常にしている雙田隊員の今後に注目です。

エチオピア北京パラリンピック代表選手またロンドンパラリンピック代表候補者のみなさん
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青年海外協力隊エチオピア代表として、JICAの共同HPで違うブログをアップしているので、暇な人は見てくださいね。
以前、流行った携帯小説にになってブログ小説風になってます。
ぜひ、JICA WORLD REPORTって検索してみてください。
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# by genta_ishibe87 | 2011-08-12 03:23  

Ambition

今回は前回に引き続き、雙田隊員の行っている施設について書きたいと思う。

前回書いたストリートチルドレンを助けようとしている牧師さんの話を聞いた後、ある施設に行ってきた。

その施設は「レイプされた女性とその子どもたちのための施設」である。

言葉だけを聞いてもあまりピンっとこないかもしれないが、その施設は①エチオピアでレイプされた女性が産んだ子どもの面倒を見る、②若くしてレイプされた女性が手に職をつけるための職業訓練、③レイプによって傷ついた心をケアするための場所、といった目的がある。

施設に入った瞬間、驚いた。
20人ぐらいの子どもたちが遊んでいて、何人かの子どもたちがしーちゃんに抱きつきに行った。そして、その後すぐに私の方にも抱きつきに来た。

かわいく、そして元気な子どもたちだった。

子どもは間違いなくかわいく希望に満ち溢れている。

レイプされた女性の子どもたちの施設と聞いていたので、どんな雰囲気かと想像がつかなかったが、雰囲気として幼稚園と一緒だった。子どもたちは元気よく遊び、元気よく勉強し、元気よくご飯を食べていた。

子どもたちと一緒に遊んでいてキッズサッカーを思い出した。
たんこぶコーチが関わった子どもたちはどうしているだろう~

そして、お母さんたちはその施設で子どもたちの先生をしている人もいれば、0歳から1歳ぐらいまでの子どもたちの面倒を見ている人もいる。そして手に職をつけるため手芸や美容師としての訓練を受けている。

この施設を見てかなり感動した。
子どもたちのためにもお母さんたちのためにも欠かせない施設であった。

そして最も感動したのが、施設長と話をした時だ。
施設長は私たちと話をしている時、ずっと「JICAに資金面でサポートしてほしい」と連呼していた。雙田隊員もずっと「JICAは資金面でのサポートはできない」といい続けているにもかかわらず、彼は言い続けていた。
そして、話をしている途中に提案書までも作成していた。
この施設は政府が運営しているわけでも、来ている子どもたちやお母さんからお金を得ているわけでもない。
収入源はほとんどなく、寄付金によってまかなっているらしい。

本当に経営がかなり苦しいようだった。
だから彼はそれでも言い続けていた。

話をしている時、「なぜ、わからないんだ?」と私は思っていた。

しかし、彼は私たちと別れる際に最後に言った。

「We never give up.」

そう、彼はJICAが資金面でサポートできないのは充分に認識しているのだ。
しかし、彼はこの施設を運営し、多くの女性と子どもたちを幸せにしたいと思っている。
だが、運営していくための予算は厳しい状況にある。
しかし、彼はあきらめるわけにはいかない。
よって、可能性は0に近いにもかかわらず、「自分のできることを全力でしている」
それが、提案書を書いたり私たちに何度も何度も頼み込むことだったのだ。

彼の最後の言葉は心に響いた。

そして思った。やはりこの世の中、お金は切っても切っても切り離せないものになっている。
何をするにあたっても金を大切になってくる。
もし私がカルロスゴーン並みの経営者だったならば、最高の運営方法をアドバイスできただろう。

無知すぎると思った。


勉強しよう。勉強しなければ、何も変わらない。

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# by genta_ishibe87 | 2011-08-02 17:55